日本における D&D® の展開

古強者ども

日本で初めて RPG をプレイした人々は,D&D のふるさとであるアメリカと同じく,シミュレーション・ゲームのプレイヤーでした。彼らは昔から(おそらくは 1970 年代前半でしょう)海外のシミュレーション・ゲームやボード・ゲームなどの MPG(マルチ・プレイヤー・ゲーム)で遊んでおり,彼らにとっては当初 D&D もそうしたゲームの 1 つにすぎなかったのではないかと推測されます。しかし着実に RPG のプレイヤーは増え続け,やがて MPG のプレイヤーとの分離が進んでいきました(もちろん当時も MPG と RPG の両方をプレイする人はいましたし,現在でも二足のわらじを履く人々は珍しくはありません。といっても今なら TCG と RPG がポピュラーな組み合わせでしょう)。そして 1980 年代のはじめには RPG をプレイすることを目的としたサークルもいくつか結成され,各々英語版の D&D を独自に翻訳し,プレイングを行っていました。

日本語版登場

1985 年 6 月,株式会社新和よりついに「Dungeons & Dragons® ベーシック・セット」が発売されました。英語版の第 4 版を翻訳したこの日本語版ベーシック・セットは,RPG はもちろんファンタジーについて全く知らない人や,比較的低年齢層を対象とした記述が充実しており,これを契機に日本での D&D プレイヤー人口は一気に膨れ上がりました。とはいえ昔から英語版で遊んでいたプレイヤーには,むりやり日本語にされた名詞や読み方の違うカタカナ語が不評だったりもしたようです。たとえば,こんな…。

このような日本語版の不出来を理由に新規参入のプレイヤーを馬鹿にするプレイヤーもわずかながらいたようです。90 年代後半にも,グループ SNE の翻訳した海外 RPG を原語でプレイしている人が,日本語版でプレイしている人を罵倒する光景がちらほら見られました。もっとも,このような現象は RPG にかぎらずどのような趣味の分野でも起こりうることではあったのですが。

それはともかく,翌年にはより高レベルのキャラクターをサポートするエキスパートセットも発売され, D&D と AD&D 専門情報誌の創刊,ハガキによる Q&A,公認ファンクラブの設立と,サポート体制も万全になりました。特に 1986 〜 1987 にかけては,ほぼ毎月新製品が発売されるという,RPG プレイヤーたちにとってはまさに天国のような状況でした。もっとも,低年齢層を対象に含めていたにもかかわらず製品やアクセサリーの多くは 2,000 円以上と高価であったため,決してその売れ行きは十分でなかったような印象があります。

ロードス島戦記

そんな中,D&D の知名度を一躍高める事件が起こりました。1986 年 8 月より始まった,パソコンゲーム雑誌「月刊コンプティーク(角川書店刊)」誌上での D&D リプレイ「ロードス島戦記」の連載開始です。

このころまでに,海外では RPG をもとにしたコンピュータ・ゲームが発売されるようになっており,日本でもそれらの移植作品(「ウィザードリィ」「ウルティマ」など)や日本オリジナル作品(「夢幻の心臓」「ブラック・オニキス」)が人気を得ていました。そのため,コンピュータ・ゲームのプレイヤーは,「剣と魔法の世界」に比較的なじみがあったように思えます。こうした背景を踏まえた上で,RPG/MPG 専門誌ではなくパソコンゲーム雑誌を連載誌に選んだのは大正解で,グループ SNE の水野良が創造した「ロードス島」を舞台にくりひろげられる冒険物語は大好評を博し,コンピュータ・ゲームのプレイヤーを RPG に取り込むのに成功しました。さらに 1987 年 5 月からは第二部がスタートし,その人気を揺るぎないものとしました。続く数年で「ロードス島戦記 RPG」に始まり,小説・アニメーション・コンピュータ・ゲームへと幅広い展開を見せたのはみなさんもご存知でしょう。

新和のサポート活動

ロードス島の話ばかりしていると,まるで日本で D&D が広まったのはすべてグループ SNE と角川書店のおかげであるように思えてしまうので,今度は肝心の発売元,つまり新和が行ったサポート活動についてもう少し詳しく見てみましょう。先ほども述べたように,新和のサポート活動は「専門情報誌の創刊」「ハガキによる Q&A」「公認ファンクラブ設立」の 3 本柱から成り立っていました。

専門情報誌の創刊

日本語版「エキスパート・ルールセット」の発売直後,ロードス島戦記の登場とほぼ時を同じくして,1986 年 8 月に D&D・AD&D 専門情報誌「ドラゴンマガジン」が創刊されました。B5 版 32 ページで 450 円と大変お得なこの雑誌は,残念ながら一般書店ではなくゲームショップのみが取り扱っていましたので,今となってはお持ちの方もそれほど多くはないのではないでしょうか。ではまずは大まかな歴史・展開をご説明します。

ドラゴンマガジンはページ数を増やしつつ,季刊誌として Vol. 4 まで発行されました。そののち,1987 年 8 月発売の Vol. 5 より「F・G ジャーナル」と名前を変え,さらに 1988 年 5 月からは隔月刊となり,サイズも A4 に拡大され「オフィシャル D&D(R) マガジン」として生まれ変わりました。オフィシャル D&D(R) マガジンは,9 号からは綴じ方や紙質が変更されるなどしたものの,1991 年 12 月に発売された 22 号までは順調に発行されており,さらに 22 号の編集後記では「25 号から本誌は刷新されます」とのコメントも掲載されていました。しかし 2 月に発売予定の 23 号の発売が 5 月にずれ込み,エイプリルフール特集号となるはずの 24 号の発売は中止され,オフィシャル D&D(R) マガジンにかわる一般情報誌として 8 月に創刊された「FG(ファンタスティックゲームズ)」も 2 号の内容を発表しながら 1 号で廃刊となってしまいました。

さて,このドラゴンマガジン,注目すべきは編集に関わった方々がほとんど一介のアマチュア・ゲーマーであったということです。いえ,一介の,という表現は適切でないかもしれません。彼らはみな 20 代前半と若くはあったもののたいへん経験豊富で,種々のしがらみに縛られず純粋にゲームを愛するその姿勢は,ある意味ゲーム業界で働くプロフェッショナルよりも熱意にあふれていたのですから。彼らはそれぞれ異なるグループに属していたため,他のグループよりもよい記事を提供しようという意地からその誌面は現在国内で発売される商業誌では見られないような深い造詣に満ちた文章で埋め尽くされることとなり,加えて各グループのメンバーがボランティア活動でファンクラブ(後述)を支えてくれたりもしました。

実際の誌面の構成ですが,半分〜 2/3 ほどが連載記事で,残りは特集記事となっていました。さらに,TSR, Inc. 発行の本家 Dragon Magazine の翻訳記事が掲載されることもときどきありました。以下に,連載記事の中で代表的なものをいくつか挙げておきます。

Dungeon Master's Room――D&D®,AD&D® マスター座談会
ドラゴンマガジン〜F・G ジャーナル時代に連載されていたコーナーです。日本語版監修者の大貫氏を司会者として,毎回異なるテーマについてベテランからビギナーまでの DM 各氏が意見を述べる,というものでした。内容はかなりレベルの高いもので,読みごたえ十分といったところでした。
Dungeon Original World
日本語版監修者の大貫氏が,D&D に関するさまざまな話題ついて解説するコーナーです。ワールドやアドベンチャー,キャラクターなどを作る際の指針のようなものが提示されていました。
マキビィズ・アーマー & ウェポンハウス
マイスター・マキビという名の武具屋の主人が,D&D の背景世界のモデルとなった中世ヨーロッパで実際に使われていた武具の解説をするコーナーです。のちに「マキビの旅日記」と名を変え,廃刊直前まで連載の続いた長寿コーナーでした。さて,マイスター・マキビの正体は誰なんでしょう…?
ヴィジュアル・ダンジョンズ・コーナー
その筋には有名なモデラーのぐゎるま氏が担当する,メタルフィギュアの紹介と塗装方法の解説を行うコーナーです。新和はメタルフィギュアについてもかなり力を入れており,このほかにもファンクラブ主催のメタルフィギュア・ペイントコンテストを定期的に開催したり,メタルフィギュアの塗り方を解説した本を発売したりしていました。このコーナーも名前を変えつつ廃刊まで連載が続きました。
幻想教養講座
ファンタジーや歴史についてごく真面目に掘り下げるコーナーです。ライター 1 人が 1 つのテーマを 1 ページで解説していました。非常に格調高く,当時の私には少々難しすぎる世界でした(今でもそうだろうって? ごもっとも)。
ようこそグリフォン・インへ
いわゆる「読者のお便り」コーナーです。グリフォン・インという冒険者の宿にやってきた冒険者たちのあいさつ(読者の手紙)に,メイドのシャリーさん(編集局のだれか)がやさしく返事をする…という形式でした。ときどき読者の間で議論が発生することもありました。
サークル紹介
メンバー募集のおしらせです。コンベンションなどがそれほど盛んでない地方のゲーマーにとっては非常に有用だったのではないでしょうか。

ハガキによる Q&A

新和は,ルール発売当初から往復はがきによる Q&A を実施していました。質問は基本的に「はい」か「いいえ」で答えられるもののみとされており,返事は 1〜3 週間ほどで送られてきました。特に多い質問については誌上で回答が示されていたようですが,ほとんどは一人一人に返送していたのですから,その労力たるや想像を絶するものがあるでしょう。いまさらながら新和のスタッフの努力には頭が下がります。

また新和とは関係ないのですが,コンプティークにロードス島戦記が連載されていたころは,パソコン雑誌であるコンプティークにも RPG のルールに関する Q&A コーナーがありました。といってもオフィシャルなものではなく,あくまでいちゲームデザイナーである黒田幸弘氏(「D&D(R) がよく分かる本」の著者)の個人的見解でしたが。

公認ファンクラブ設立

D&D の発売元であった新和は,「DFC(ドラゴン・ファン・クラブ)」という日本唯一の公認 D&D ファンクラブを設立しました。RPG を発売している企業がファンクラブまで設立するというのは,日本ではこれが初めてのことだったのではないでしょうか。正確な発足日は分かりませんが,日本語版エキスパート・セットに案内がないこと,ドラゴンマガジン創刊号に案内が掲載されながら,同紙の新和主催の D&D コンベンション情報に DFC の名が記されていないことなどから,F・G ジャーナル創刊と同時期の 86 年夏ではないかと考えられます。

DFC の入会案内はもれなく日本語版ベーシック・セットに同梱されていたため,入会は非常に容易でした。1,000 円という入会金も,高校生以上ならば気軽に出せる程度の金額でしょう。ちなみに一度入会すると以後永久会員として扱われました。

事務局は F・G ジャーナル編集部と同じように新和内に置かれ,始めの頃は大貫氏を始めとする日本語版スタッフおよび F・G ジャーナル編集部により運営されていたようです。が,後に編集部の方々が所属するサークルのメンバーや D&D のいちファンである方々がボランティアスタッフとして DFC 運営に加わるようになり,90 年にはボランティアスタッフの 1 人が DFC 副事務局長に選出されています。

余談ですが,このように雑誌の編集やファンクラブの運営でアマチュアの力を非常にうまく活用することに成功した新和のやりかたは,現在でも有効であるように思われます。RPG で飯を食っていこうという人間はそれほど多くはありませんが,余暇の半分を RPG に割いてもよい,という人間なら世の中にあふれていますから,それを利用しない手はないでしょう。もっとも企業側に高度なマネージメント力が要求されるのは言うまでもありませんが。

DFC の活動内容は,発足当初は年に数回のコンベンションの開催,他のサークルによるコンベンションの後援,協賛が主なものであり,その会員は「会員証が送られます」「当会が公認するコンベンションに無料参加できます」(DFC の案内より)以外何の特典もない,単なるステイタス・シンボルのようなものでした。しかし,86 年 9 月に月会報「DFC ニュース」の配布(購読料は年間 2,500 円)を開始し,会報に新製品のタイムリーな情報(当時 F・G ジャーナルは季刊〜隔月の転換期)や伝言が載るようになり,一般で言うところのファンクラブらしくなってきました。やがて DFC ニュースには読者からの投稿の他に,「相談室」と題した読者からの質問――それも「ゴーゴンとラストモンスターが戦ったらどうなるか」「性格語とは」などルールブックでは答えられない質問――を他の読者が答えるコーナーや,日本語監修者による読者参加型のコーナー(ちなみに,「ORG のお絵かきお姉さん」こと宮須弥嬢が一時期イラストレータをしていました)などが作られ,ここでしか手に入らない情報も数を増やしていきました。

DFC のコンベンションやイベントについては,参加した方のお話によると,30 以上のテーブル,スタッフを含め 200 名近い参加者,参加者全員へのプレゼントおよび景品大会など充実した内容だったようです。また雑誌記事によると,他にもライブ RPG やフリープレイ,「F・G ジャーナル」「オフィシャル D&D(R) マガジン」ライターの公開座談会,大貫氏の手品などの数々の楽しいイベントが行われたこともあったようです。JAF-CON(JApan Fantastic CONvention,ホビージャパン主催)などの巨大イベントと比較するわけにはいかないかもしれませんが,ほぼ単一システムのイベントで毎回 200 人近い参加者を全国から集めた(お話をうかがった方が参加したときは,長崎や静岡,仙台の方と一緒にプレイされたそうです)DFC の存在は,やはり大きかったのではないでしょうか。

DFC の会員数は最終的に 4500 人程度に達したようですが,残念なことに 92 年の冬〜春頃に消滅してしまいました。正確な解散日は判明していません。DFC ニュースの配布が 92 年 1 月の 52 号を最後に突然停止したのです。92 年の春に支部(DFC 会員)主催によるコンベンションが浜松,神戸,仙台,札幌で行われたこと,DFC および新和から会員に何の連絡もなかったことから考えると,解散宣言していないのかもしれませんが,真相は不明です。

ゲーマーと著作権

D&D がポピュラーになっていき,プレイヤーが増えれば,元気のあるプレイヤーが自分でシナリオを書いたりアクセサリーを作ったり英語版を翻訳したりしてそれを発表しようとするのは自然な流れでした。しかしそうして発表された作品のうちいくつかは,新和の「取り締まり」を受けたという噂です。聞きかじったところによると,

という例があるそうです。こうしたことが起こった背景については私も詳しくは知らないのですが,なんでも当時アメリカでも同様の動きがありそれに神経を尖らせていた TSR が日本での規制も強化するよう新和に通達したとか,ドラゴンマガジンを TSR 公認雑誌にするため編集者が四苦八苦した結果だとか…。

ちなみに,週間少年ジャンプ連載の「バスタード!」(萩原一至作)に登場したビホルダーが,新和にクレームをつけられたため単行本収録時には手足が生えて名前が変わったというのは,比較的有名な話でしょう。もっとも萩原氏の場合「前科」があったので新和も目をつけていたのでしょうが。

新和からメディアワークスへ

1994 年が明けてまもなく,RPG マガジン 3 月号に次のような告知が掲載されました。


D&D(R) Game ファンの、皆様へ

ファンのみなさまには懸念でございました、日本語版「Dungeons & Dragons(R)」翻訳権および出版権の問題ですが、1993 年 11 月 1 日をもちまして正式に株式会社メディアワークスに移行されました。日本語版展開の詳細に関しましては「電撃アドベンチャーズ(発行・メディアワークス/発売・主婦の友社)」に掲載されておりますのでそちらをご覧ください。

ご報告が遅れたことを心からおわび申し上げます。

なお、D&D(R) Game, および AD&D(R) の英語版商品は、米 TSR 社との契約により、当社が引き続き日本国内での輸入販売を行ないますので今後ともお引き立ていただきますようよろしくお願いいたします。

1993 年 12 月 20 日
株式会社 新和

…寝耳に水とはこのことです。この移行劇の裏で何があったのか私には知るすべもありません。が,おそらくは日本語版 AD&D の売れ行きが思わしくなく,高額な版権料が負担になっていたこと,それから日本語版出版活動の中心人物のひとりであった大貫氏が前年に亡くなられたことが大きく関係していたのではないかと個人的には推測しています。

そして 1994 年の夏には D&D(R) ルールサイクロペディア 3 分冊が,冬にはゲーム・シナリオ「キングズ・フェスティバル」がメディアワークスより発売されました。「ルールサイクロペディア」というのは,新和版のもとになった第 4 版を構成する 5 冊のルールブックを 1 冊にまとめた“Dungeons & Dragons(R) Rules Cyclopedia”という本の 1-9 レベル対応部分を抜き出して翻訳したものです。ここで古参の D&D プレイヤーを驚かせた事実があります。それは「ルールが文庫である」ということです。日本の RPG を中心にプレイしている方にとっては「そんなのあたりまえでしょう。どうして驚くんですか?」といったところでしょうが。

実は,TSR という会社は自社製品に対して非常に高い誇りを持っている会社で,新和が翻訳を手がけていたころには本の版形はおろか,ページ数やレイアウトにいたるまでオリジナルと同一にするよう指導していたのです。まったく違う言語で単位面積あたりの情報量を同じにしろというのだから無茶な話です。このため新和版 D&D は文字が小さい,行間が狭い,漢字が多いなどといった理由から少々読みにくいものとなっていたのです。

ところがメディアワークス版 D&D は文庫でした。ただ単に TSR が自社製品へのこだわりをなくしたのでしょうか? それともメディアワークスが粘り強く交渉したのでしょうか? 真相は私にはわかりません。また,はたして文庫という形態は最善のものだったのでしょうか? 基本的に文庫というのは RPG にあまり大きな金額を投資できない学生をターゲットにしています。メディアワークス版 D&D についても,挿し絵が若者向けのコミック調のものになっていることからもこれは明らかです。しかし文庫は紙面が狭いこと,縦書きであることなどから,表を多用する RPG ルールにはあまり向いていないとも言えます。出版社の方々もいろいろと悩んだことでしょう。みなさんはどう思われましたか?

とにもかくにも D&D はめでたく復活を果たし,新しいプレイヤー層を獲得しました。オフィシャル・ワールドであるミスタラを舞台としたリプレイ「ミスタラ黙示録」も,RPG 雑誌「電撃アドベンチャー」誌上において連載が開始されました。また先ほど挙げた「キングス・フェスティバル」に続き「クイーンズ・ハーベスト」「ナイツ・ダーク・テラー」などの翻訳版アドベンチャーも順調に発売され,10 レベル以降のルールを中心に構成されるはずの「上級ルール」の発売を待つばかりという状況になりました。

しかし,上級ルールが発売されることはついになかったのです。

D&D® は二度死ぬ

1998 年 5 月,グループ SNE とメディアワークスのウェブサイトに以下のような文章が掲載されました。

D&Dシリーズ刊行についてのお知らせ

D&Dシリーズの小説とゲームシステム書は、1994年から電撃文庫と電撃ゲーム文庫で展開してまいりましたが、このたび、原書の版元のTSR社がWOC社に合併されたことにともない、小社での発売・刊行につきまして、1998年6月末日をもちまして終了することとなりました。

その結果、98年に予定していたシリーズ新刊刊行も中断せざるをえなくなりました。

読者の皆様ならびに、安田均先生、グループSNEの先生方にご迷惑をおかけしたことを深くおわびいたします。

また、これまでのご愛読・ご支援に対しまして、心より御礼申し上げます。

電撃文庫編集部

日本語版 D&D は,こうして 2 度目の死を迎えることになりました。WotC が TSR を併合したことと日本語版 D&D の発売が終了したこととの間にどのような相関関係があるのか,上記の文章から読み取ることはできません。噂によると,WotC が TSR を併合する際にすべての対外契約を破棄するよう求めた,とも,メディアワークスが D&D で利益を上げられなかったため撤退することにしたのだがそれでは格好がつかないので合併を引き合いに出した,とも言われています。

我々はまたもや真実を知ることができませんでした。

おわりに

ながらく絶版となっていた日本語版 Dungeons & Dragons ですが,2002 年末,AD&D の後継である Dungeons & Dragons 3rd edition の日本語版が株式会社ホビージャパンより発売され,現在でも着々とそのラインナップを充実させつつあります。3rd edition は私たちが知る D&D とは別のゲームではあるのですが,その中にはたしかに D&D の血筋とでもいうべきものを感じることができます。登場からもうすぐ 30 年,大きく成長し十分に洗練された D&D は,昔を知る人にもそうでない人にも,間違いなくおすすめできるたいへん素晴らしいゲームになりました。そしてさらにこの先も成長を続け,世界中の人々に空想世界での冒険の楽しさを伝えつづけることは疑いようもありません。

この文章をお読みになっているみなさんの多くはすでに 3rd edition をプレイしておられることと思います。けれど,もし,その 3rd edition が昔はどんなふうだったのか興味がわいたり,あるいはマルチクラスだとか機会攻撃だとかそういう複雑なルールにちょっと疲れたというのであれば,A も 3 もつかない Dungeons & Dragons を,日本に RPG を根付かせることになった荒削りだけども素敵な RPG を,ちょっとだけ遊んでみてはいかがでしょうか。決して時間の無駄にはならないと,胸を張って申し上げられますから。


最後に,このドキュメントを執筆するにあたって非常に有用な資料を数多く提供してくださったいしおか氏と ALUCKY 氏に,心よりお礼を申し上げます。お二方の協力なしでは,とうていこのような文章を書き上げることはできなかったでしょう。ほんとうにありがとうございました。